芥辺探偵事務所というプレートのかかるドアがあるフロアを通り過ぎて、上のフロアへと続く階段に足をかける。一段ずつ上りながら、今日はなんだろう、と考える。以前であれば、コップ一杯の水かコンビニの弁当で済ませていた夕飯はここ最近、バラエティ豊かに和洋中そろったメニューで供されていた。面倒臭さゆえに摂取しないことも珍しくなかった以前とは打って変わって、今では今夜の夕飯はどんなものだろうかと思いを巡らしさえする。彼女が俺の生活に入り込むようになって劇的に変わったものとして、食事環境の占める割合は殊の外、大きかった。
 階段を上りきった先の、タイル床の廊下の突き当たりに設えられている臙脂色のドア。その横にあるインターフォンのボタンを押すと、ドアの向こうから高い音が響いた。二拍ほど後に、スリッパの音が近づいてきてドアロックが解除される。
 ガチャリ、と中からドアが開いて、玄関に立った彼女が俺の姿を認めてその顔を花のように綻ばせた。
「おかえりなさい、アクタベさん」
「ただいま、さくまさん」
 緩んだ頬を撫でおろして顎下を指先でくすぐるように触れてやれば、目尻がふわりと下がるのを幾度、可愛いと思ってきたことだろう。



 彼女が手伝ってくれるのに任せながら黒い背広を脱いで、ネクタイを外しながらリビングへ入ると何やら嗅ぎ慣れない匂いがした。リビングと繋がるカウンターキッチンからそれは漂っていて、夕飯の支度をしていたらしい彼女が何か新しい調味料を使ったのかと思う。少し濃厚な、甘やかさの混じるその匂いにはどことなく覚えがあって、首を傾げる。
「なんか匂いがするね」
 外したネクタイをソファの肘置きに掛けて、先ほど脱いだ俺の背広を寝室のクローゼットにしまってからリビングに入ってきた彼女へ尋ねる。俺の言葉になぜか、んふふ、と意味深な笑みを浮かべてキッチンへ向かった彼女はその手に瓶を抱えて戻ってきた。
「これですよ」
 眼前に掲げられたその瓶はジャムの瓶よりも一回りくらい大きいサイズで、貼られているラベルには「レンゲのハチミツ」と書かれていた。文字の下には紫色の蓮華のイラストもある。
「友達が旅行のお土産にくれたんです。なんでも蓮華畑が有名なところで採れたハチミツらしくて」
 といっても今は蓮華のシーズンじゃないんですけどね。ラベルを眺めながら入手の経緯を語る彼女に、へえ、と返しながらその瓶を自分の手に移してまじまじと眺める。手の動きに伴ってとろりと傾いた液体は琥珀色をし、電灯の光を反射して僅かに輝いて見えた。
「ハチミツなんて料理に使うの?」
「使いますよー。カレーにも隠し味で入れますし、魚の匂い消しにも。普通に野菜炒めに少し入れてもおいしいんですよ!で、今日は鶏肉のハチミツ焼きにしてみました」
 カウンターに置かれていた皿を取り上げて見せられる。白い皿にレタスを敷いて彩り鮮やかに盛り付けられた鶏肉は、照り焼きのように食欲をそそる光沢を放っていて、微かにハチミツの香りが鼻孔に届いた。ハチミツを料理に使うなど思いもしなかった俺にとっては初めて見る料理だ。一体、彼女はこういった料理のレパートリーをどうやって増やしていったのだろうと、感嘆混じりに思いさえする。
「すごいね」
「へへへ。ご飯にしちゃいましょう。今、お味噌汁よそいますから」
 彼女は得意気に笑った後、キッチンへ引っ込んで味噌汁の用意を始めた。たっぷり容量の詰まった瓶は俺の手の中に残される。それを目の上まで持ち上げて、瓶底の下から中を覗き込む。入り込んだ光が屈折したように映って、まるで水面が黄金色に輝いているようでもあった。このハチミツはどんな味がするだろう。ふと、純粋に思って、さほど固くもなかった瓶の蓋を開ける。瞬間、少しくせのある甘い香りが立ちのぼって、脳髄を刺激される。予想以上に強いその香りを面白く感じながら蓋をカウンターに置いて、琥珀色の水面に左手の指をずぷりと突き立てればねっとりとした感触が絡みついた。指先を鉤形に曲げて絡みついたハチミツを掬い上げ、とろとろと垂れる液体をこぼさないようにしながら口へ運ぶ。
 ――甘ったるい。
 口腔の中にまとわりつくような粘度で、糖度が高いと明らかにわかる味の濃さが強烈だ。けれども舌触りはそう悪いものではないし、ごく少量であれば快いものかもしれない。
「あーっ、アクタベさん、なにしてるんですか!お行儀わるい!」
 カウンター越しに俺の行動を発見した彼女が、眉を吊り上げて歩み寄ってきた。
「味見したかったなら、スプーンあるのに。手も洗わないで指突っ込んじゃだめじゃないですか、もう!」
 俺の手首を細い指で掴んで、行儀の悪さを叱責する彼女はこちらを見上げる恰好になっていて、眉を吊り上げているために自然と上目がちにもなっている。日本人には珍しい、薄く緑色の混じった瞳は魔性を惹きつけるものだ。虹彩が照明で際立って、過つことなく俺を射る視線に背筋をじわりと這い上がるものがある。
 知っているか、さくまさん。
 理性なんてものは容易く傾ぐんだ。
「アクタ……ーーッ!?」
 名を呼びかけた唇を割って蜜にまみれたままの指を、ぬちゅり、と差し入れる。途中で発音を切り上げさせられた舌の動きは、予測し得なかった動きに驚いて反応し、結果的に指先を舐めることとなった。手首にかかる彼女の指は、甘い指の侵攻を阻む障害となるにはあまりにも脆弱すぎた。なんとか俺の手を引きはがそうと抵抗しているものの、目の前にいるのが、ここで大人しく引き下がるような人間でないことは彼女自身が一番よく理解しているはずだった。
「…ふ、っぅ」
 奥に逃げようとする舌を掴んで捕らえ、その表面に指を擦りつける。ざらついた感触を楽しむように、擦りつける動作を繰り返しているうち、ついに溢れ出した唾液が口の端から一筋流れた。赤いフレームの眼鏡の下、息苦しさにか、はたまた別の要因にか形を歪ませて潤むふたつの目が、それでも俺の目に合わせられていることに、一種の支配欲が満たされる。
 唾液を分泌し続ける粘膜を捕えたまま、ぷっくりと赤く色づいた唇の端に自分のそれを寄せて、流れ出た跡の筋を舐め取る。そのまま端から中心に移動して、無遠慮な指から解放されたばかりの小さな舌を吸い上げて唇同士を合わせる。唾液に薄まったハチミツの味がして、水音がした。鼻から抜けるような声が聞こえ、極めて近い距離へ顔を近付けている―というよりほとんどくっつけるようにしているせいで、眼鏡がこちらの鼻筋にも当たって、身動きする度に眼鏡の位置が微妙にずれていく。レンズの下で、戸惑いを多分に含んだ瞳を薄く瞼の隙間から覗かせている様を見つめて、性質悪く口元が吊り上がるのを自覚する。彼女には見えないだろうが。

 べちゃり。

 だからだろうか。いきなり右頬に生温い感触が襲ってきて、ぬちゃぬちゃと擦り込むように広げられているのは。思わぬ事態に動きを止めてしまい、その隙を逃さなかった彼女が自力で俺の捕捉から逃れて、潤んだ瞳で俺を見据えたまま肩で息をした。ついでに俺の手首も解放された。
 自由になった左手を右頬へ伸ばして、そこになすりつけられたものを拭ってみれば、それは予想通りハチミツだった。俺の右手に握られたままだった瓶から、彼女がそれを掬いとって頬に叩き付けてきたに違いない。
「……お、お返し、ですっ」
 その推測を裏付けるように、涙目で睨みつけられた。ライトグリーンのエプロンの前身頃を右手で握り締めて呼吸を落ち着けようとしている彼女の左手。その指先にはぬらりとしたものが付着していた。
「……へえ」
 上等だ。
 呟きは聞こえたか否か。雰囲気の一変した俺に怯えたか、反射的に身を翻して逃げようとした彼女の腕を掴んで懐へ引き寄せ、腰に移した腕で体を固定して襟ぐりの深く開いた胸元へ瓶を傾ける。重力に逆らわず、瓶の口からとろりと質量たっぷりに垂れ出したそれは狙い通りに彼女の鎖骨辺りに落ち、なだらかな線を描く、しかし豊かに膨らんだ双丘へと向かう。服と肌の隙間にするりと潜り込んだそれに彼女がひいいいと色気もなく叫びだした。
「“お返し”だ、さくまさん」
 好意は受け取るよな? いりませんんんん!!と喚かれても、クーリングオフは生憎受け付けていない。与えたイケニエは強制的にでも受け取らせるのが俺の主義だ。その見返りをしっかり求めることも忘れはしない。
 中身が半分ほど減った瓶をカウンターの上に置いて、往生際悪く喚き続ける彼女を壁に押し付けてその口を塞いだ。先ほどまでの行為を思い出させる荒々しさで。そして従順にそれに従った彼女は程なく力の抜けた声を漏らし始め、強張っていた体が僅かに弛緩する。
 とろけきった目をした彼女の前に右頬を向ける。
「舐めて」
 命じれば、幾許かの逡巡を経ておずおずと唇が寄せられ、吐息がかかったのとほぼ同時に熱を持った塊が頬を舐め上げるのが伝わった。猫がミルクを舐めるような、それにしては随分と淫靡な音がすぐ近くで聞こえ、往復する舌の動きに性を刺激させられる。
 俺自身も内部で高まるものに逆らわず、彼女のエプロンを捲り上げシャツの裾から手を差し入れて、柔らかな乳房を包む布地に触れる。胸回りを巡る布地部分の縁を指先で辿っているうちに、違和感を感じ取る。
(……?)
 背中で合わされているホックを探ると、アンダーバストの長さが最も長くなる位置で掛けられていた。それを前面に移動させて、カップの下部分に手を這わすと、カップ下部のワイヤー部分が浮いて、そこから乳房がはみ出る形になっていた。ブラジャーが肌から浮いて出来た隙間から指を入れて、乳房の下部輪郭をなぞるように触れれば、彼女がびくりと反応して俺の頬から顔を離した。
「く、くすぐったいです、アクタベさん」
「さくまさん、あのさ」
 服の中に手を入れたまま胸下を掴んで、離れるのをそれ以上は許さずに赤らんだ顔に詰め寄ると、何をされると思ったのか彼女が身構えた。
「胸、大きくなった?」
 しばしの沈黙。
 ようやく俺の言葉の意味を理解した彼女がぼんっと更に顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせた。
「なっ…なななななんでわかるんですか!」
「ブラ、合ってないから。サイズ小さいの着けたまんまでしょ。乳はみ出てる。」
 ほら、と再び、ブラジャーに収まりきれていない乳房の下部分を揉んで確認すると、揉まないでー!と悲鳴が上がった。
「だって、下着って、結構高い…んですよ。そんなにすぐに揃えなくてもいいかと思って」
 ぼそぼそと言い訳をする彼女に嘆息する。無駄遣いをしないことは彼女の美点でもあるが、こういう点では欲張ってもいいのでないか、と思わないでもない。
「せっかく綺麗な胸してるのに崩れたらもったいないだろ。下着くらい買ってあげるから」
「え……買ってくれるんですか」
 心底驚いたかのように目を瞬かせた彼女の胸元に顔を下ろして、垂らしっぱなしなまま放置されていたハチミツを舐め取る。たっぷりと胸元にコーティングされたそれは、先ほどよりもひどく甘い味がした。今や完全にハチミツの香りを纏って、彼女自身がとても甘い蜜を齎す存在になってしまっている。
「俺は、ある一部の業界では君に甘いことで有名らしいからね」



'11.08.03 wrote
ハニーレディ