「仕事だ、ジャーファル」
 その瞬間に誰かの運命が定められるのだ。


 漆黒の外套を纏ったような空には厚い雲がかかり、その切れ間から覗く月の光が地上を淡く照らし出す。ぼんやりと浮かび上がる建物の輪郭、漆喰の壁は月光を融かし込んで吸収するようにも見えるが、しかしその裏、白い光の届かないところには影が濃く落ちてその中から何かが蠢き出でてくるかのような不気味ささえ有している。月光が眩さを増す分だけ、その影は深くなり、得体の知れないものが渦巻いているかのように人の目を利かなくさせる。
 それでもジャーファルには苦にならない。光落ちる下へ晒すことのない身には、闇は己を覆い隠し、また馴染ませてくれるものであるからだ。世界が闇色に包まれるこの時、建物が立ち並ぶこの場所で影が切れることはなく、どこかで繋がりながら続いていく中を少し小さな足が僅かの音も立てず、ただささやかな風の流れだけを後に残しながら移動していく。月の明かりがあるとはいえ見通しの悪い道でも、暗殺術を叩き込まれてきたジャーファルの目は自分が進んでいく方向を的確に見定め、躊躇いなく進む。顔は目元だけを露出して黒布で覆い、身に纏うマントの裾が時折月光に照らされるが、それもほんの一瞬で、誰かに見咎められる様子もない。それ以前に人の気配が全くしないのであるから、人の目に入る可能性は随分と低かった。近頃は誰も皆、夜のうちには外に出たがらない。
 この地域へ新しい領主が赴任してきたのは三月前のこと。国の中央機関で手柄を立てた下級役人が出世してここの領主を任ぜられたというのが表向きではあったが、どこかの少々名の知れた家の出である男が金に物を言わせて領主の座を手に入れたという裏の経緯が巷間には広まっていた。領主交代の際に、今まで精勤と励んできた元領主との間に一悶着あったというから、実態の伴わない見せかけの実績を重ねただけの男に対して、部下たる役人たちに聊かの不満も出ないはずがなかった。領主着任の真実についても、そういった役人たちの間から領民へと漏れ伝わったものであろう。しかし人々は表立って領主を批判することができなかった。
 あの男には悪魔が巣食っている。誰かが恐れのこもった声でそう言った。
 視察と称し、従者を連れて街中へ領主が初めて姿を現した日。新しい領主を一目見てみようと好奇心で集まった人々の中から、金しか取り柄の無い奴は辞めろ、と揶揄する声が上がった瞬間、領主は自らの懐から剣を抜いて己の最も近くにいた領民を袈裟掛けに斬ったのだ。悲鳴を上げる間もなく白刃を受けた男の身体から血飛沫が上がり、水を打ったように場が静まり返った一瞬の後、恐怖に叫びながら混乱のまま人々はその場から逃げ出した。ざわめく群衆の中から二、三人の女性を指差して従者に引き捕まえさせた領主は、血に濡れた剣を地面に突き刺しながらこう宣言したという。
 我がいとしき領民達よ。無礼にも人を罵倒する者にはこのように首を落とし、心臓を潰すのが相応しい罰というものだ。儂はこのような罪悪を決して許しはしない。また、儂にはまだ妻がいない。お前達の中から儂の目に適う女がいれば、妻にしてやってもいい。まずはこの三人を見極めさせてもらおう。この女達が儂の妻たるに相応しくなければ、また次を探しに来る。喜べ、今選ばれなかった女にもまだ機会はあるのだ。希望を抱いて、胸をときめかせておるがいい。
 決して若くは無い中年の男が恰幅の良い身体を揺らしながら高笑いを響かせて女達を引き摺り、屋敷へと消えていくのを、人々は呆然と見ていたという。女達の夫か父親か、連れ去られていく女達を取り戻そうと駆け寄った男は領主の従者に斬られて絶命した。昨日までは予想だにしなかった惨憺たる光景に、平和に日々を過ごしていた領民達は皆震え上がって蜘蛛の子を散らすように家へ戻り、閂を下ろしてその日は一切外に出ることは無かったということだ。だが、領主は宣言通り、先に連れ去った三人の娘がそのお眼鏡に適わなかったのか、数日後にまた女を求めて街に姿を現した。領主が現れると思わず、油断して井戸のそばで洗い物をしていた女が有無を言わさず拉致するように引き摺られていった。それから数日後にも同じことが行われ、繰り返し繰り返しそれは重なり、今日までに至っていたというわけだ。
 この街では、呼吸をすることさえ躊躇われるように人々はひっそりと生活をし、領主の息がかかった警備の者が巡回する夜には、明かりすら漏らさぬほどに家の戸をぴっちりと閉めて閉じこもっているらしい。それを裏付けるように、ジャーファルがこうして身を隠しながら移動していることに少々の違和感を感じるほど、街中には人は元より鼠一匹さえ姿が見当たらなかった。足音を殺し、影から影へ目に止まらぬ素早さで駆けて行くジャーファルの前方に、開けた道とそこに聳え立つ頑丈そうな塀が見えた。ジャーファルの身の丈三倍以上はあろうかという高さだ。だが、ジャーファルはそれを視界に入れても風を切る速度を落とすことなく、むしろ更に勢いをつけてその塀へと駆け寄り、白い壁が眼前に迫る寸前で地面を蹴って高く浮かび上がった。その刹那、ジャーファルの真っ黒な全身は闇から抜け出て月光に照らし出されていたのだが、跳び上がった位置から少し離れた場所で門番をしていた警備の者を始めとして、それに気付いた者はおらず、黒いマントを纏った小さな身体はすぐに塀の向こうへと消えた。
 着地する時にさえ、ごくごく微かな音しかさせず、微風に葉が揺れるようなそのささやかさに、やはり誰も気付かなかった。実に呆気なくジャーファルは領主屋敷への侵入を果たし、小さな鐘楼を中心に据えた、この街で一番の広大さを誇る建物を見上げた。柱には植物の葉のような彫刻が施され、階段の手摺りも金塗りで、窓には色つき硝子がはめられているところもある。建物の周りには棕櫚の木が植わり、大きな葉が夜風に揺れてさざめいている。ジャーファルは屋敷内の見取り図を脳裏に浮かび起こし、自分の現在地をそれと照らし合わせる。どうやら自分がいる場所は屋敷の東側、客間のある方のようだ。そこから今回の“仕事”の対象である領主の元へ行くには、まず屋敷の中央部分に行かねばならない。領主の私室は屋敷で最も奥まった場所にある。
 着地した場所から近い壁へと背をつけながら移動し、そろりと窓の端から室内を覗くと、中には誰もいなかった。上下に分かれて区切られている窓は互い違いになっている下部分を上へと引き上げて開ける型のものであり、硝子越しにそっと上目遣いに見れば、区切り部分の窓枠に鍵がついているのが見えた。ジャーファルは懐から薄い銅板のようなものを取り出し、それを互い違いに合わさっている窓枠の隙間へと挿し込み、螺子のように窓枠を貫いている鍵を、薄板の鋭利な端部分で削っていく。地道な行為だが、確実な行為だ。硝子が割れる音は案外大きく響くものだし、割れれば必然的に侵入の痕跡を残すことになる。あとあと面倒な事態にしないためにも派手なことはすべきではないと教えられて育ってきた。確実に、そして迅速に。己にはそれだけが求められている。
 一点集中して小刻みに削る音がしばらく続いた後、薄板が突っかかる感覚が消えて、手を動かせばするすると窓枠の中を動いた。鍵が切断されたことを確認し、ジャーファルは薄板を懐へしまいこんでからそっと窓枠を掴んで持ち上げた。身が入る分だけを持ち上げ、胸元より少し高い位置にある窓へと身体を折って入りこむ。するりと蛇のようななめらかさで侵入し、開けた時と同じ慎重さで窓を下ろす。室内は窓からの月光以外が射す場所以外には静かな暗さがある。出入り口である扉に歩み寄り、そっと耳を当てて部屋の外の様子を窺う。これが扉などでなく、布を垂らしただけであれば探るのもいくらか容易なのだが、言っても詮無いことだ。夜分遅い刻限であるから、人の気配はなく、警備の者が巡ってくる様子もなさそうだ。そう判じてジャーファルは把手に手をかけて扉を外側へゆっくりと開いていく。扉の隙間から目だけを覗かせて、やはり人がいないことを確認してから細い身体を廊下へ移し、指先で扉を軽く閉めて、身を屈めながらひっそりと静まり返る屋敷内を足早く奥へと進んでいく。途中で警備の者の気配がすれば、身を縮め息を潜めてやり過ごし、また駆ける。
 悪評絶えない領主の屋敷は、建物の華美な威容に反して数人程度の使用人しか雇っていない。領主は使用人であろうと容赦なく手にかけていたため、残っているのは領主が実家から引き連れてきた者と、上手く立ち回ることで生き長らえている一握りの者くらいであった。相場よりも高い給金を餌にすることで使用人を留めている現状は、やはり金しか取り柄がない男であることを図らずも自分で証明している。それが皮肉にもジャーファルにとっては幸いしているわけだが。
 人望のない領主のおかげでジャーファルは予想したよりも労せずに屋敷の奥まで行き当たり、他の部屋よりも一際豪奢な扉を前に立つ。果たして前任の領主の時分からこうであったのか、扉一面には金塗りが施され、ぐねぐねと入り組んだような模様の彫り込み、おまけに扉の把手には小さな宝石が幾つか埋め込まれている。わかりやすい権力の誇示を見ながら、ジャーファルはその煌びやかしい把手にそっと手をかけて扉をほんの少しだけ開いた。廊下の壁に掛けられていた灯りは火を消してあるから、室内に明かりが漏れることはない。細く開けた扉の隙間から領主がいるはずの室内を窺うと、切れ切れに呻くような声が聞こえる。顔に巻き付けた黒布から覗いた目を動かすと、寝台の上で揺らめくものが見え、それが寝台のそばにある燭台の炎に照らし出された人の姿だと判ると、ジャーファルの身体が音もなく中へ入り込んだ。寝台の上の人影がそれを察知した様子はない。
 室内の壁際に置かれた、金の杯や水差し、短剣、指輪などが並べられた飾り棚の陰に膝をついて息を潜める。寝台からは神経を逆撫でるような粘着質の声と、女の高い声が断続的に聞こえてくる。気付かれぬように細心の注意を払い、棚の端から顔半分だけを覗かせて寝台の上へ視線を注ぐ。
「………ほら、お前のここはこんなに濡れて、儂の指を美味そうに咥え込んでおるぞ?」
「ぁあ、や、あっ、」
 何かを掻き回す水音のようなものが響き、寝台の上に身を起こしている、だらしなく贅肉をでっぷりと蓄えた男の身体の横からは細い脚が伸びて、時折引き攣れるような動きをしている。男と違って見苦しいところのない、なだらかな線を描く脚がシーツの上に突っ張るのを見ながら、ジャーファルは無呼吸かと思うほど密やかにゆっくりと呼吸をし、耳は布を隔ててもどんな音も聞き逃すまいとそばだてられ、腕に巻き付けた紐の感触と手に握る武器の重みは放たれるその時を待っている。
「掬っても掬っても、あとから溢れてくる。はしたない涎だのう」
 言葉とは裏腹に、その声音は嬉しげな、しかしやはり粘着くような不快さを含んでいる。それを耳に入れながらも、ジャーファルは何を顔に表すことなく、ただ目だけが底知れぬ光を湛えて男の背中を見据えている。脂肪で丸まって幾つもの染みが浮かぶ、剥き出しの醜い背中。権力の上に胡坐を掻くことに慣れきって肥えた、だらしのなさ。己の背にどんな目が向けられているのかを顧みない男は、最後の淫靡な享楽に耽っている。
 男の手が、白い太腿をむっちりと掴んで大きく脚を開かせた。
「やぁ……っ、お、お願、」
「もう我慢できないか? よしよし、ちゃんとあげるからな」
 子供に言い聞かせるように優しささえ含ませて、領民達に聞かせる陰湿な声とは違う猫撫で声で領主たる男は女の身体へと手を伸ばした。横に広い身体が邪魔をして、男がどのような行動を取ったのかジャーファルからは見えない。女が高い嬌声を上げ、柔らかな線の脚を男の腰に絡ませる。白蛇のような動きだ。その脚に引き寄せられるように、男が少し腰を上げて、自分の下腹部を弄るような動きを見せてから、女の腰を掴んでそこへ身体を寄せた。
 ぐちゅ、と泥濘に足を突っ込んだような音が聞こえ、男の身体がぐいぐいと女の方へ押し付けられていく。男の身体の向こうで女の手が持ち上がって宙を掻くような仕草をし、それから男の腕に爪を立てた。
「あ、ひぃっ、あ、ふ、んあー……」
 だが男は怒る風でもなく、むしろ嬉しそうに口の端を吊り上げたのをジャーファルは見た。ずぶずぶと泥濘の中へ何かが埋められていく音、それが己の内の緊張とそして感覚を研ぎ澄ませ、手に持つ武器の硬質さを確かめさせる。
 やがて男が動きを止め、ああ……と安堵するような気の抜けた声を出し、ゆるゆると腰を揺らす。赤と橙混じり炎の色彩が男の崩れた身体の皮膚を這い、その身を焼くような揺らめきを見せる。女の声が強請る。早く。

 ――仕事だ、ジャーファル。

 瞬間、飾り棚の陰から飛び出して寝台の上へと身を躍らせたジャーファルは手に握っていたものを男に向かって投げ、先端に付いた刃物の重みをうまく利用しながら男の首に紐を幾重にも巻き、己の腕から伸びるその紐を握りこんで男の背中に身を添わせて贅肉を纏った首を強く絞め上げる。
「!? っぐあ、っア、が……っ」
 男の手が己の首に伸びて、巻きつく紐を外そうともがくが、既に紐は隙間もないほど密着している。爪を立てて掻き毟られた首筋には赤い痕が生まれ、皮膚が剥けた。ぎりぎりと骨を圧迫し、気管に僅かの空気が入る隙間も無いほど引き絞っているのに、さすが権力に固執する人間らしく、意地汚く男はまだ生きており無駄な抵抗をしてくる。ジャーファルは手にこめる力を強くし、無表情な瞳で男の肩越しに、苦痛と死の恐怖に瞠目し喘いで口の端から涎を垂らす今際の顔を凝と見つめる。
 どんな男でも女に突っ込んでいる時には隙が生まれる。そこを狙え。女の中に入れたまま果てるんだ、男にとってはある意味幸福な死に方だろう。お前は幸福の手助けをしてやればいいのさ。
 自分に暗殺術を教えた人間の言葉が脳裏に浮かぶ。それは実に合理的な殺し方だ。姿を現し、正面から男と相対して抵抗されても確実に仕留める自信はあったけれど、功名心など不要なだけ、己はただ粛々と仕事を遂行する人形でいればいいのだ。領主は好色な人間で、毎晩のように閨に女を呼ぶ。それだけを伝えられれば、今回はどのような方法で処分すべきかということは読み取れた。ジャーファルに仕事が与えられた時点でこの男の命運は決し、故にこそ、男はここで死ななければならない。
 ジャーファルは尚も足掻く男の背から身体を浮かし、醜悪な肉の塊に足をかけてそこを支点にして、白目を剥いて痙攣しながらまだ息のある男を宥めるように手綱を握る如く手を引く。紐が擦れながら肉に食い込む音、骨が折れそうに軋む音、もはや声にならない呻きが、男が身を硬直させた刹那の後にすべて途絶え、紐を引き剥がそうとしていた手は力を無くしてだらりと垂れる。男の動きが完全に停止したことを確認して、ジャーファルはまた一度、強く首を絞め上げる。紐が食い込んだ分だけ男の首は括れて歪な輪郭を描き、首から上の顔が紫色に変色しているのが、蝋燭の明かりに照らし出された。
「な、なに……りょ、領主……さま……?」
 男の身体の向こうから困惑した声が聞こえ、脱力して重みを増した権力者の身体を横倒しに放って紐を回収してからジャーファルは男との情交に耽っていた女へと顔を向けた。暗い室内の中、枕元近くに置かれた燭台からの明かりに女の顔が照らされると、そこで初めてジャーファルの瞳が少しだけ見開かれる。女の顔には包帯があった。目の部分を完全に覆って顔に巻きついている包帯、その両の眼窩部分には赤い染みが付着している。炎の揺らめきは、顔の中で奇妙に存在を主張する包帯へも燃えるような色彩を落とし、ジャーファルの目に女の姿を焼きつかせる。女の中に入っていた男のものは委縮し、先ほどジャーファルが横倒しにしたことで女の泥濘の中から抜けていた。許可なく動けば仕置きが待っていると思っているのか、女は濡れた秘所を露わにしたまま寝台の上で仰向けの体を動かさずに手だけを宙に伸ばして、指先に触れるものを求めてそこから事態を把握しようとしているようだった。二つの赤い染みを滲ませる白い布の下にはきっと空洞があるばかりで、彼女はこの事態をなにひとつ把握出来やしない。女も殺せ。ジャーファルはそう伝えられた。哀れな女。
 ジャーファルは音もなくシーツの上で膝をにじらせ、女の身体の横へと身を移す。手には先端を尖らせた鋭利な武器。黒布を纏う顔の中で唯一露出している目で女を見下ろすジャーファルのその視線を察したのか、女が前方に向けていた手を己の身体の横へと伸ばした。細い、しなやかな女の手がジャーファルの顔布に触れ、女が何事かを言おうと口を開く前にジャーファルはそれを己の手で塞いで、手にした武器で女の首を掻き切る。途端、裂けた血管から血が迸り、勢いよく放出されたそれはジャーファルにも返って、顔布と目元の皮膚に付着したのが自分で分かった。口を塞ぐジャーファルの手に爪が立てられ、女が男と同じように身悶えするが、ジャーファルは腕の力を緩めない。白い包帯に新たな染みが滲み、剥き出しの脚がばたつく中で、一人だけ静寂にジャーファルは女を終焉へ導く。
 やがて女は息絶える。シーツの上に流れ出る血は未だ温かさを保っていたけれど、その身体は徐々に熱を喪失していく。まろみを帯びた乳房でさえもその柔らかさを硬直へと変えて、人間から屍へと変質していくのだ。命はこうして簡単に終わる。造作も無い。
 生を失った者の寝床から下り、武器や顔に付着した血痕をシーツで拭ったジャーファルは窓からの光を遮断している鎧戸を開け、濃密な性の匂いが漂っていた室内へ外気を入れる。顔をそっと出して周囲を窺い、何の気配もしないことを確認してから窓枠に足をかけ、誰かの生が絶えようと則を過つことない世界の夜闇へと再び身を沈めた。



'12.01.13 wrote
終わり迎えの子